意味のある沈黙

これはオランダ語の記事から翻訳したものです。原作者はGaston Dorren(ガストン・ドルン)。

手話入門コースを受けている、と友達に言った時、驚くべき反応が二つあった。まず、僕がデンマーク語、スペイン語、ロシア語、ノルウェイ語、ルーマニア語やチェコ語を勉強していたときよりも興味を示してくれた。どうやら手話という言葉はみんなの好奇心をかきたてるようだ。

つぎに、僕の友達の中には修士号所有者が何人もいるが、手話については悲惨なほど誤解されている発言を何度も耳にしたことがある。80年代頃から、手話を広める活動が言語学者と手話の擁護団体により何度か行われたにも関わらず、手話に対する誤解はまだたくさん残っている。それを無くすために僕は明確な目標をもってこの記事を書くことにした:よくある七つの誤解をまとめ、誤解がなくなるように説明していきたいと思う。

その一 「手話って、世界共通だよね」

そうだといいんだけど!僕が受けたコースはオランダ手話(Nederlandse Gebarentaal, NGT)の入門コースだった。そこでちょっと習ったことを手話がわかるイギリス人に対して使ってみるとしよう。しかし彼が理解するのはとてつもなく困難だろう。彼らの母語はイギリス手話(British Sign Language, BSL)なのだ。イギリス手話とオランダ手話はまったく別の言語なのである。しかし別の国の手話同士であっても、お互いの手話が流暢であれば、そこには言葉の壁などほとんど存在しないのである。母国語が異なる健聴者同士の間に築かれるであろう言葉の壁なんかよりももっと低い。流暢に手話を使えるようになってしまえば、簡単な話題であれば即興で身振りでなんとなく会話ができてしまう。しかしたとえば金融規制についての議論や、抽象的な話題になると、舌がもつれてしまうだろう。いやむしろ指がもつれてしまうだろう。

でも、どうして世界共通の手話がないんだろう?もちろん、あったほうがいいよね。世界中の人々、みんなが英語やエスペラント語、いや、日本語が喋れたらいいなと思うのと同じこと。言葉も手話ももともとは人々の集まり、つまり社会からうまれたものである。言葉も手話も、世界中のあらゆる人々とコミュニケーションを取るためではなく、自分たちの社会、コミュニティの人たちとコミュニケーションを取るためにうまれたものである。そのコミュニティで使われている言葉をそこから奪うのは難しいだろう。特殊な例をあげるなら、EU本部の所在地であるブリュッセルでは言語の切り替えが行われるようだけど。

その二 「イングリッシュ手話って耳の聞こえない人にとって世界共通の手話だよね」

その前に「イングリッシュ手話」なんてものはない。イギリス手話(British Sign Language, BSL)は利用者が3万人ちょっといる。利用者が100万人以上のインドとパキスタンの手話であるIPSLと比べると非常に少ない数だ。圧倒的な存在感をはなつのはアメリカ手話(American Sign Language, ASL)だろう。ASLは歴史上の偶然でイギリス手話ではなく、フランス手話(LSF, Langue des Signes Francaise)と関係が深い。手話語族は言語語族(ゲルマン、ローマン、スラブなど)とまるっきり同じというわけではない。手話語族というものはあるけれど、構成がちがう。言葉の場合には隣の国からの言葉の影響が大きく、その場合同じ言語語族に属する。しかし手話は違う。手話の起源と思われる、耳の聞こえない人たちのための学校である聾学校は離れた他の国の聾学校から影響を受けていたからだ。スウェーデン手話、フィンランド手話とポルトガル手話は一つの語族に入っているその一方で、フランス手話はASL、NGT、アイルランドのISLやその他の手話の始まりとなった。BSLの近親の手話はオーストラリア手話(Auslan)とニュージーランド手話(NZSL)。BSLの方言とも言われるくらい似ているらしい。

その三 「手話では単純なメッセージだけを伝える」

一世紀半前から教授言語として手話が使用されている大学が存在していることがおそらくこの驚くべきに広がった考えに対して一番説得力のある反論である。ワシントンのギャローデット大学では、化学や数学、哲学から歴史学までと、さまざまな課程をASLで教えている。ASLの利用者のみんなが「塩化水銀II」の手話や、「実存主義」の手話を知っているわけではない。日本語を使っている日本人のみんながこの言葉の意味がわかるというわけではないと同じ。各手話にはこの言葉を意味する手話の単語が必ずしも手話にあるというわけではない。この世の中のすべての言語に、その意味を持つ言葉がないのと同じだ。確かに古代ラテン語とパプアニューギニアで使われる言語ではこの言葉が存在していない。でも言語の利用者はコミュニケーションができるために語彙発達したりすることができる。手話の利用者も同じく語彙発達をしている。
「手の形などを使い尽くしてしまわないの?」と思ったら、次のことを考えて:舌、唇と喉の組み立ては腕、指と顔の組み立てより多くできるのでは?逆だろう。

その四 「手話って言葉の文字を綴るよね」

それには一理あるね。ほとんどの手話には指文字というものがある。手の動きでアルファベットを綴ることができる。これはほとんど固有名詞と手話でどう表せばいいかわからない単語を伝えるための手段である。同じ名前や言葉を繰り替えして使うとその場に仮の手話を考えて使う。後で標準手話を調べるのだ。各手話の指文字には少しだけ、似通っていることを発見できるかもしれないが、世界共通ではない。指文字は普通に片手だけを使うのだが、BSLでは両手を使って綴っている特例だ。

その五 「手話はその国の母語を反映する」

手話は耳の聞こえない人たちにより作られた言語である。彼らは母語の口語を理解するのに大変苦労するのに、なぜ手話をその口語に基づくのだろう?いや、そんなことはない。その無関係はたとえば手話の構成(「その六」を参照)では見られる。オランダ語の「klein」(小さい)と「geven」(あげる)は、オランダ手話で目的や物の形によってさまざまな表し方がある。
一方、手話は母語と完全に絶縁しているとは限らない。始めに母語は手話の語彙には少し影響がある。オランダ語の複合語は例えば appelsap(アップルジュース)、levensverzekering(生命保険)、gebarentaal(手話)、母語と同じパターンを取る。それに母語の言葉を声を出せないで口で言いながら手話を表すこともある。口の形によって意味が違う手話さえある。
混乱させてしまうかもしれないが、母語にきちんと従う手話システムもある。英語対応手話(Manually Coded English, MCE)はその例。オランダ語対応手話(Nederlands met Gebaren, NmG)と日本語対応手話もある。これらは話す母語を理解させるための手話の組み立てだ。MCE、NmGと日本語対応手話は自然言語ではなく、健常者と聴覚障害者の間のコミュニケーションをもっと簡単にさせる人工的に発達された方法だ。

その六 「手話は文法がない」

小さい時に母が「英語は文法がない」と言ったことを思い出した。母が言いたかったのは、英語には、フランス語とドイツ語みたいな動詞と形容詞に語尾を付けたりする変化のことではない。確かに手話にも語尾みたいなものがない。実は「手話の語尾」って想像ができない。でも語尾がなくても、変化しなくても、英語にも手話にも確かに文法がある。

お互いの国の言語のように手話でも単語の順番を変えることによって文章の意味を変えることができる。例えば日本語では「本の上にハサミがある」と「ハサミの上に本がある」では意味がまったく違ってくる。オランダ手話では「本の上にはハサミがある」という場合「本」「ハサミ」「重なる」の順番で表す。次の「ハサミの上に本がある」は「ハサミ」「本」「重なる」という順番で表す。思ったより違うかもしれないけど、一貫性がある。

言葉を伝える方法として言葉の順番以外にも空間を利用することは手話の特徴である。たとえば「訊く」という言葉は手の形が一つだけど、手の動きこそが意味を持っている。「あなたに訊く」を表したいときは手の動きが話し手から聞き手へ動いていく。逆の方向だと意味も逆になる。

その七 「手話は意味を描写する」

「リンゴ」の手話はリンゴを食べるような手話で表す。「コーヒー」という手話はコーヒーグラインダーを操作するように表す。この象徴的な手話は「クックー」と「バタン」のような国語の擬音語と比較するとわかりやすい。手話にはこういう擬音語が口語よりたくさんある。これは何もおかしいことではない。モノと行動を表すには音よりも手話のほうが表示しやすいのだ。とは言っても、新しく手話を生み出すためのどんな優れた能力があったとしても象徴的な手話で表すことができない単語がまだたくさんある。「組織」、「アパート」や「サクラソウ」をどうやって手で表現できるだろう。つまり、手話が口語より象徴的であるものの、口語のように勝手に決められたそうだ。

ここで挙げた7つの疑問だけでは解決できない問題がまだたくさんある。「手話では叫ぶことや囁くことができない」、「手話方言、手話スラング、手話の詩なんかない」、「手話を書くことができない」などなど。このすべては間違い。しかし、手話でできることに制限がないわけではない。暗闇のなかで手話ることは、混んだバーで会話するのと同じように難しい。運転しながら手話るのをやめた方がいいよね。
そして手話の利用者がコミュニケーションの場面で抱えている大きな問題、それは自分たちろう者のまわりの社会ではみんなが別の言語、例えば日本であれば「日本語」を喋っている。だけど、もし世界中のみんな、日本中のみんなが耳が聞こえないとしたら、みんなが手話ったとしても何も失うものはないよね。

原作者について

Gaston Dorren「歩くことができる前に話すことができて、幼稚園のころ文字を読めないことで苦しんだことを覚えている。十代に入ってからは、様々な言語を勉強した。そのうちの幾つかは真面目に勉強し、他の幾つかの言語はある程度だった。ジャーナリストとして言語学に関する著書をオランダ語で二冊出版した。Nieuwe tongen (新しい舌、1999年出版)はベネルクス(ベルギー、オランダとルクセンブルクの三ヶ国の集合)の移民者の言語について語る。Taaltoerisme (言語観光、2012年出版)はヨーロッパの53ヶ国の言語についての生き生きと書いた案内本。この本は3冊目の著書となる Lingo(2014年11月出版)というプロフィールブックの基礎となっている。」

– Gaston Dorren
http://languagewriter.com/

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